(仮)ユダヤ人に向けられた銃口 - その5

2006年05月10日

 職場ではメガネをかけている。黒フレームのやつなので泣き跡は少し隠せる。目薬もたっぷり差したし充血も少し改善された。けど、若い子に開口一番に言われた。彼女さんとケンカしたでしょ。愛嬌のある笑みを浮かべ。わかるよ、そんな顔できたら。っていうか、顔、洗った?そういいながら温かいコーヒーをいつものように入れてくれた。きょうは何杯目なんだろう。きょうだけは緑茶の方が良かったが、若い子の入れてくれるコーヒーは自分で作るものより数倍もうまい。若いくせに、やるな。前にカフェでバイトしてたの、そういえば前にそんな話をしたか。で、どうなった?フラれたとか?若い子は容赦がない。もしやこいつもナチの党員か。好きな人ができたってメールがきたよ。そういうと若い子は一瞬びっくりした顔をしたが、やっぱり!わたしがいった通りになったんだ、と少し申し訳なさそうな顔をした。そう、若い子はあのメールが来る前日にこう予言していた。会うことも電話もメールもないってことはきっと他の男ができたんだと思うよ。その時はそうなのかなって笑いながら流し、あまり心配することもなかった。それほど、彼女を信用していたから。が、偶然とは恐ろしい。予言の直後の現実。偶然じゃなく必然だったんだ。まさかめざましテレビの占いはこいつがしてるんじゃないのか。こいつがムーンプリンセス妃弥子なんじゃ・・・。でも、それだけだよ、まだね。ふーん、じゃあ、きょうの夜が運命の分岐点になるかもね。で、明日の約束、守ってくれるんでしょ?デートの約束。いまはそれどころじゃない、そうは言えなかった。ズルいかもしれないけど、もしかしたらきょうで彼女とは終わる。その辛さに耐えれるほどオレは強くない。耐えるだけの自信がない。これっぽっちもない。でも、彼女と仲直りできるのなら、もちろん明日のデートは中止だ。その後も、ないだろう。

(仮)ユダヤ人に向けられた銃口 - その4

 部屋に戻り、再びメール本文を考える。その前に、きょうの運勢を確認。蟹座。アンラッキー。人間関係で苦労するブルーな日。何かと意地悪されて気分は最悪。寛大な気持ちで接してあげよう。ラッキーポイントは三角定規。って、小学生の算数の授業でもないのに三角定規なんてどこでどう使えばいいんだろう。占いなんて信じることはあまりないけど、きょうのはやばい。やばいぐらい当たってる。寛大な気持ち。わかったよ、あなたの好きなようにしたらいい、好きな人と幸せになるといいね。そうメールを送るべきなんだろうか。そう簡単に終わって良いのだろうか。いままでの長期にわたる付き合いは何だったんだろうか。彼女のことをオレはどう思っていたんだろう。好きな人ができた。突然そういわれても仕方ない。ここ最近は若い子ばかりに目を向けていた。もう一ヶ月ぐらい彼女には会っていないし、電話やメールの回数もここ一ヶ月でかなり減った。自業自得か。でも、それは決して彼女を嫌いになったわけではないし、例えば遠く離れている家族とは毎日会うこともないし、毎日電話が掛かってくることもないと同じで、空気みたいな、そんな感じ。毎日会わなくても、毎日会話しなくても、心は通じ合っている、そう思っていた。それがダメだったんだな。空気のような存在。無くては困るけど、あってもその有り難みがわからない。いまさら反省しても遅いか。

 彼女のことは誰よりも理解しているつもりだ。浮気ができるような人じゃないし、他の男と二人で出かけることなんてあり得ない。限りなくゼロに近くない。じゃあ、あのメールは何なんだろう。好きな人ができた。そういわれても信じることができない。彼女の職場には男はいないし、出会う機会もないはずだし、合コンなんていく人じゃない。それは誰よりもわかっている。嘘。嘘なんだろうか。オレを驚かすためにそんな冗談を言ってるんだろうか。ここ数年ケンカなんてしたことはないが、付き合って間もない頃はよくした。そんなとき、決まって彼女はこういった。もう、別れる。最後に必ずそういうと電話を一方的に切り、その後電源も切った。それから数日間は会うこともなく、話すこともない日々が続き、最後にはオレがいつも謝って仲直りした。今回もそれと同じパターンなのか。このメールは彼女の作戦で、オレが泣きつき謝り、ごめんね、もう若い子となんか遊ぼうなんて思わないから許して、いままでほったらかしにしたオレが悪かった、もうそんなことは絶対にしないから。そうメールを返信すれば解決することなんだろうか。わからない。わからないけど、それはオレの本心だ。それだけはわかる。若い子より、彼女の方が大切だ。悩みに悩んだ文面を丁寧に打ち込み、メールに託し送信した。午前七時。朝は少し冷え込む。温かいコーヒーを入れよう、そう思いキッチンに行くとすぐに返信があった。きょうの夜、かならず電話するから。彼女がオレのように眠れず起きていたのか、ぐっすり眠りさわやかな目覚めをしたのかはわからない。そう、オレは何もわからない。まだわからない。きょうの夜までもやもやは続く。

(仮)ユダヤ人に向けられた銃口 - その3

 五時二十五分、五時二十五分。めざましテレビスタート。もうデフ・テックには飽きたよ。いつもはあまり気にならないが、きょうばかりは大塚さんの顔が暑苦しく感じ、幸福そうな笑みがオレをあざ笑うように見える。軽部さんの目はきっとオレを哀れんでるんだ。そんなときぐらい蝶ネクタイは外せよな。アヤパンがいなかったら抗議の電話百二十回だよ。久々だよ、こんな朝早くからテレビを見るなんて。いまさら寝るわけにもいかないし、眠たくもない。朝食を食べる気もしないし、作る気もしない。タバコ、またタバコ。気づけばもう最後の一本。気分転換にタバコ買いに外に出よう。
 
 マンションから歩いて五分。近くのコンビニ。待て、待て、待て。いまのこのボロボロの顔を人に見せれるんだろうか。ただでさえ、このコンビニは頻繁に利用する。今後に支障をきたすことになるかも知れない。駐車場に止まっている車のサイドミラーに映すと予想通り。目は赤く充血し、こすり続けて周りの薄い皮膚は少し皮が剥けている。サングラスでもかけてくるべきだったよ。タモリさんはいいよな。オレも今度からサングラスキャラになろう。
 
 コンビニの中には入らず店先の自販機でタバコを買った。いつものやつより、倍ぐらいタールのきついやつ。喫煙は、あなたにとって肺気腫を悪化させる危険性を高めます。ああ、そうだよ。オレはあほみたいにタバコを吸い続け、あほみたいに死んでいくんだ。上等だ。いまは死に方より、ニコチンをより多く接種する方が重要なんだから。

(仮)ユダヤ人に向けられた銃口 - その2

 小さな灰皿は吸い殻でいっぱいになり灰は溢れ落ちている。確かにショッキングな出来事だった。一通のメールでこんなに落ち込み、あほみたいにタバコを吸ったのは初めてだ。でも、何でだろう。頭の中ではデフ・テックが歌うめざましテレビのテーマソングがこれでもかっていうほど流れている。ありがとう、行ってきます。そんな気分はこれっぽっちもないのに。もうすぐ五時。ユダヤ人と間違われてからもう二時間。これは現実なんだろうか、夢なのか。ベッドに横たわり、机に向かい、パソコンを立ち上げ、また消す。オレは一体何がしたいんだ。机の上にはコーヒーが入ったカップが二つ。いや、三つ。再び電話をかけるが応答なし。未だにメールは打てない。打つ気力がないのかも知れない。打つより、鬱に確実に近づいているような気がするし、もうその域に達したのかも知れない。ため息。デフ・テックはもう三十回はリピートされている。時々自然と口ずさんでいる自分がなぜか、面白い。愉快だ。こんなに落ち込んでるのに、なぜか、愉快だ。戦火の中にいるユダヤにも楽しいことはあるはず。戦場のピアニスト、途中からのストーリーはまったく見てないのでわからないが、この作品を忘れることは決してない。断言できる。
 
 予定が狂った。あのメールさえ届かなければきょうの夜にでも精神的にも身体的にも気持ちよく浮気ができたかもしれない。若い子と。デートの約束をしていた。ご飯食べてその後の行為も想像できた。ほんと、タイミングが悪い。ほんと、ナチは容赦ない。もう少しタイミングというのを考えて欲しい。いまの気分のまま誰かに会うことなんてできないし、そうだよ、きっとオレはこのまま引きこもるんだ。友達は電話の向こうに、パソコンの中に。そんな人生はごめんだ

(仮)ユダヤ人に向けられた銃口

 良くないことが起こった次の日は必ずと言っていいほど雨が降る。中途半端に降るわけでもなく、どしゃ降りだ。昨日の夜に干した洗濯物が再び水気を帯びている。週間天気予報ではあと数日はこの大雨も続くらしい。みっともないので洗濯物を入れ込み、浴槽のドアに吊した。昨日から何も食べていない。食欲がない。タバコと、コーヒーのみ。タバコはメンソールライトからきついものに今日の朝から変わった。
 
 昨日の夜、彼女からメールが届いた。まーくん、好きな人ができた。ごめん。深夜二時四十五分頃。ベッドに入り戦場のピアニストを見ていた。頭が真っ白に、目の前は真っ暗に。テレビから聞こえる銃声の音。ユダヤ人に無情にも打ち込まれる弾丸。首が落ち、死んでいく。オレはユダヤ人か。迫害を受け続け訳もなく殺されていく彼らに同情していたが、いまのオレにはそこまで考える気力すらなくなってしまったよ。オレは死んだも同然だ。ナチスに銃口を向けられたユダヤ人だ。
 
 タバコ、タバコ、コーヒー、タバコ。タバコが何本あっても足りない。掛け続けている電話はまったく応答がない。電波が届かない場所か電源が入ってない。沖縄の離島、渡嘉敷島でもドコモは電波が入るのに。ナチは容赦ないな。さあ、どうしよう。あほみたいに音声ガイダンスを聞き続けるべきなのか、このまま死んだように眠るのか。明日、正確にはあと数時間後で仕事だ。とりあえず、一方的にメールを受け取って、はい、お休みというわけにもいかないので、返信を返そうと悩むが、文面がいっこうに浮かんでこない。こんな時、何て打てば良いんだろう。了解しました。了解です。短く、了解。その数文字を電波に託せばいまの現実から少し逃れることができるかも知れないが、その瞬間にすべてが終わる。そして誰もいなくなった。アガサ・クリスティーの名作。でも、ミステリー小説は嫌いだ。読んだこともないし、これから先も読むことはないだろう。